前回に引き続き給与の話を。
前回は、憎き窓際族のオッサンを例に挙げながら、僕らの給与はどうやって決まっているかという話をした。
alonewolf-memorandum.hatenablog.com
サラリーマン時代初期。
前回お伝えしたとおり、一年目の僕の年収は300万に満たなかった。
それでも寮の貸与(家賃と光熱費でたしか1万)があったりして、生活には割と余裕があったりはした。
問題は2年目以降である。
2年目になり、月収が5万ほど上がった。
そして秋冬ボーナスは1年目と比べものにならないほど上がった。
年収は450万〜500万くらいの間だったと思う。
この時感じた、生活の余裕感、言い換えれば、幸福感の向上は半端でなかった。
毎週末、女遊びをしても、お金がなくならないのである。
※ナンパデビューしたのは社会人2年目の冬
その後毎年順調に昇給・昇格し、いまや1000万プレイヤーになるかならないかというところまで来ている。
しかし、最近よくよく考えて気がついたのだが、社会人2年目の頃と比べ、まったく生活が楽になっていないのだ。(お金はなくならないものの、まったく貯まらないという状況)
しかもこれは、僕だけの話ではない。
課長・次長・部長代理・部長・・・
すべての諸先輩方が、すべからく「金がない」と言っているのだ。
なぜだ!!
このままでは、僕は将来に絶望してしまう。
答えはまたまたこの本に書いてある。
小暮太一先生の「超入門資本論」である。
こんなことが書いてある。
労働者は「明日働くために必要な分」しかもらっていない、ということがわかります。
・・・ぼくらの給与は、このように必要経費方式で決まっているのです。
だから、「サラリーマンはいつまでたってもしんどい」のです。
・・・ということは、給与が上がったとしても、それは「生きていくための必要経費が増えたから」なのです。生活は常にカツカツなのです。
(第2章 年収が1000万でも生活がカツカツになる本当の理由<価値と使用価値②>)
前回の記事でも書いたとおり、われわれサラリーマンの給与は必要コストに基づき決定されている。
そして、その必要コストは「社会的平均」によって算出される。
さらに、今日明らかになったのは、驚くべきことに僕らは「明日働くために必要な分」しかもらっていないということである。(僕らに貯金させようなんて会社は少しも思っていないということ)
僕らより先輩社員の給与が高いのは、ある程度の年になれば、扶養家族がいる(だろう)し、それなりの身なりをしないといけないし、ストレスもより多くかかる(だろう)という想定に基づく。
労働者が明日の労働力を再生産できず、病気になったり、最悪死んでしまっては雇用者(会社)は困る。
だから、雇用者は明日働くためのギリギリ必要な分を労働者に払っているということだ。
この必要経費方式の仕組みをしっかり理解しないと、豊かになるための努力のベクトルが間違った方向に行きそうである。
しかし、150年前にこの理屈を提唱していたマルクスさん、お見事である・・・
ちなみに、僕はかなり例外で、入社初年度のストレスが最大値で、明日働くための労働力を回復できず、うつ状態に陥ってしまった。
あの時代を超すストレスは未だ経験したことがない。
その後、年次を重ねるとストレスは逓減していったが、女遊びを覚えてしまい、ストレス回復経費の減少分より女遊び経費の増加分が遥かに上回り、他のサラリーマン同様、給与が増えても増えてもカツカツという状態が続いている。
いずれにせよカツカツなことは他のサラリーマン方と変わりないのだが、同期と比べてもあまりに貯蓄額が少ないことも判明したため、少し焦ってきている。
しかし、ここで諦めるような僕ではなかった。
次回、この必要経費方式のサラリーマンが幸福になる方法を検討しよう。