20代の頃、女遊びに「人生を賭けていた時期」があった。
「起きている時間すべて女子にアプローチする」を自身の合言葉にして、ストリート、クラブ、ネット、ランチの店員、同僚、ザオラル案件、既存女子、などとにかく女子を寝ている時間以外口説きまくっていた。
今のように簡単にアプリで週末のアポ確定なんてできなかった時代、可能性を求めて週末夜の街に繰り出すのは楽しかった。
そして、口説いた女とその日のうちにセック◯に興じまくる日々。。
時は流れ、僕もアラフォーに差し掛かっている。
世間的に見れば、どう見てもオッサンである。
あんなに毎晩体調が悪くなるまで飲んで、手元に残った給料の大半をつぎ込んでいたのに、今の僕にそこから形として残っているものは何もない。
おそらく1アポ・1出撃5,000円として計算しても500万くらいは余裕で女遊びにつぎ込んでいると思う。計算するのも怖い。
ただ、そんな日々を「後悔した」というにはあまりにも楽しすぎる日々だったし、平均的な男子よりも美味しい思いをしてきたことは間違いないと思う。
ただ、さすがにこの歳になると、これからの人生について考える時間も増えてくるものだ。
「そろそろ女遊び以外のこともできるようになりたい」
そんな風に決意したのがここ1~2年の話だ。
こんなくだらないブログを昨年書き始めたのもそんな心情変化の一環である。
まあ、かなり遅いほうだとは思うw
普通もっと早く気づくだろうと。
大学時代とかからブイブイ言わせられていたら20代のうちに落ち着いていたのだろう。
非モテをこじらせるとこうなる。
それにしても、あまりに人生は短い。
あの六本木でナンパしていた日々がずっと続くと思っていたのに。
茨木のり子氏の『ぎらりと光るダイヤのような日』という詩の中に、
世界に別れを告げる日
人は一生をふりかえって
自分が本当に生きた日が
あまりにも少なかったことに驚くであろう。
という一節がある。
僕はきっとあの若かりし日の夜遊びを「自分が本当に生きた日」として思い出すだろう。そうに違いない。
貴重な20代、仕事に充てるも遊びに充てるもその人間の自由である。
僕は、全力で女遊びをした20代を悔いることはない。
さて、これからの人生を考えよう。
人間に与えられた時間は平等であり、24時間のうちにできることは限られている。
日々、僕らは無意識に無数の選択肢から取捨選択をして時間のポートフォリオを作り上げている。
理想的な30代後半の男というものを考えたとき、仕事・趣味だけの人生ではやはり物足りないし、女遊びはしなくなると錆びついていく。女のいない人生はつまらない。
アラフォー男子にとっての最高の人生というのは、キャリアアップのための時間投資に比重をおきつつ、女遊びも楽しんでいるくらいの状況なのではないだろうか。
そんなことを最近考えている。
おしまい