僕の人生を変えてくれたと言っても過言ではない、アドラー心理学を哲学者と青年の対話形式で記した岸見一郎氏の大ベストセラー『嫌われる勇気』。
本書には、原因論の否定(=自責マインドを持てば人は変われるという考え方)や「課題の分離」(=最終的に自分が結果を受け入れる課題にのみ関与する)など、有意義な人生を送るためのヒントが詰まっている。
今の自分の置かれている境遇が、環境や家族・上司・部下・友人のせいではなく、すべて自分の選択の結果もたらされたと思わないと成長はない。他人ではなく自分にフォーカスを当てることで、初めて競争する相手が他人ではなく過去の自分になり、生産的な人生を送れる。
また、「他者の課題を切り捨てる」という発想もストレスのない人生を送るうえでは非常に大切である。たとえ友人が自分のことを嫌っていたり、上司が思い通りの評価をしてくれなくても、それはあくまで他者の課題であって、自分にはどうにもできない問題なのだから気にする必要はないのだ。
このように、『嫌われる勇気』の前半は、そのタイトルのとおり、他人に執着せずに生きていくコツが書かれており、非常に感銘を受けたことを覚えている。
一方、後半になると議論のテイストがガラリと変わってくる。
本書の中で若かりし頃の僕にとって特に解せなかったのが「共同体感覚」という概念だ。
これが対人関係の「ゴール」として挙げられていた(ちなみに対人関係の「スタート」は「課題の分離」)のだが、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを「共同体感覚」と定義している。
初めて読んだ当時は率直に微妙だ・・と思った。実際、アドラー心理学の中でも、その評価について最も議論の分かれるところと言及されており、アドラーが共同体感覚の概念を提唱したとき、多くの人々が彼のもとを去っていったという。
だから、「課題の分離」までが『嫌われる勇気』の真骨頂で、「共同体感覚」以降の話は晩年のアドラーが筆を滑らせてしまったのだろうと自分の中で整理し無視していた。
しかしながら、である。
年を重ねて「自責マインド」や「課題の分離」という思考が当たり前にできるようになってくると、自分と他人を完全に分離したうえで、他人に対して目を向ける余裕が生まれてきた。
われわれは他者貢献をなし、共同体にコミットし、「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感して、それで自らの存在価値を感じるのだという。
そのとおりだとおっさんになって思う。もちろん、この「役に立っている」という気持ちに承認欲求などというくだらない要素はない。単に「貢献感」があればそれでいいのだ(要は自己満でよいということ)。
これは、村上春樹の作風がデタッチメントからコミットメントへ作風が遷移していった過程と似ていると思った。
「デタッチメント」というのは、言ってみれば「公と私」「組織と個人」の関係性の問題を切断した上で、後者の課題に特化する態度である。
初期の村上春樹の作風は、「やれやれ」に代表される世間や社会はどうであれば自分は自分で生きていく主人公を描いた作品が多かったが、1995年に起こった阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件などを通じ、個人として何か<誰か>にコミットする道に気づいたというのである。
僕自身、青年期である30過ぎまでは口説いている女性以外と話さないという孤独を貫くスタイルで生きてきたけど、中年期に片足を突っ込んだ今、困った時に知らない人に助けてもらったり、他人のさりげない優しさに気づいたりする中で、マクロでいえば社会問題に関心が出てきたり、ミクロでいえば街中で困っている人にこちらも手を差し伸べたりと、僕もそんなことができる歳になってきたんだなーと思った。
まあ、アラフォーなんだから当たり前といえば当たり前の姿で、いい年して自分のことしか考えられない大人ってのも寂しい。一方で、若いのに自己犠牲の精神ばかり発揮しているのも違うなーと思う。若者はいつもギラギラすべきなのだ。
そう思えば、案外標準的な年の重ね方をしているのかもしれない。
おしまい