普段安いビジネスシューズは数ヶ月で使い捨てるのだが、重要な商談用に履いていく勝負靴があり、それは革がかなりしっかりしているので、繰り返しカカトを修理して使い続けている。
今日は近くのミスターミニットにその靴を直しに行き、修理されるのを待っている間、公園のベンチでファミマで買ったコーヒーを飲んでいた。もう春だ。外でコーヒーを飲むのに最適な時期である。あと数ヶ月したら暑くて長居ができるなくだろう。
公園でぼんやりとコーヒーをすすりながら思ったことは、最近思うように行かないことが多いということだ。ただ、まったくダメというわけではなく、仕事も女関係もその他のプライベートも可もなく不可もなくといった状況で、100点満点で40~50点の間くらいのイメージだ。
そんななんとなく無気力な気持ちでいたところ、ふと故茨木のり子さんの『ぎらりと光るダイヤのような日』という詩を思い出した。
短い生涯
とてもとても短い生涯
六十年か七十年のお百姓はどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう(中略)
世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう本当に生きた日は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ
なかなか良い詩です。
この詩を初めて読んだ時、
われわれ人間は一生涯で本当に生きた日(=最高の日)など、指折り数えるほどしか経験できないのだ。
なら、その他の99.9%の日は、ありふれた or つまらない or 疲れた or 最悪な日で当たり前じゃないか。
と、変な安心感を覚えた記憶がある。
そして、この詩を読むたび、高校一年の春休みに、生まれて初めて真剣に付き合った彼女と花見をした日を思い出してしまう。
この約40年間の歴史で、私が本当に生きた日と断言できるのは、あの1日だけである。
あの日は食卓に並んだ朝食、流れていたテレビ番組、待ち合わせ場所に現れた彼女の姿、交わした会話、耳に流れてきたBGM、屋台に並ぶたこ焼きの匂い、駅で別れる時の寂しい気持ちなど、今でも全てを鮮明に覚えている。朝起きてから眠りにつくまで、幸せさで満ちていた日は今のところあの1日のみだ。
こう茨木のり子的に人生を考えれば、平凡もしくはやや悪いくらいの日が大半で、ちょっとでも良いことがあれば御の字と考えることもできる。
今日は無くしたと思っていたハードコンタクトレンズのケースが出てきた。新品で買ったら両眼で2万円弱だ。そんな些細なハッピーなことを日常の中にたくさん見つけ出し積み重ねていくことで、幸福度を高められる人になりたいものだ。
おしまい