
赤提灯の誘惑と、22時という絶妙な時間
先週、気づけば3回も同僚と赤提灯に行ってしまった。
いずれも22時近くまでの残業後である。仕事が終わったその足で、会社の近くにある焼き鳥屋だの、餃子のうまい中華屋だのに吸い込まれていく。さながら蟻地獄に落ちていく虫のように。
このパターンには、いくつかの典型的な構造がある。
まず、22時という時間だ。これが絶妙なのである。中途半端な時間で、家に帰っても何もできない。そして何より、周囲にいる同僚たちも皆、似たような疲労感と空腹感、ストレスを抱えている。すると自然と「ちょっと軽く行きますか」となる。
酒は抑圧された勤め人の“合法麻薬”
私は以前にも、このブログで「酒は勤め人の麻薬である」と書いた記憶がある。そしてその認識は、今も変わらず正しい。いや、ますます確信を深めていると言ってもよい。定時に帰れる日には、不思議と誰からも誘いがないし、私自身、飲みに行きたいとも思わない。つまり、酒は仕事にすり潰された心と身体に、仮初の快楽を与えてくれるドーピング剤なのだ。
しかし、問題はそのドーピング剤が、あまりに自然に、社会生活の一部として流通している点にある。赤提灯でビール片手に上司の愚痴をこぼす。焼き鳥をかじりながら「来期の目標、無茶だよな」と嘆く。そうやって一時的なガス抜きをして、また翌日、何事もなかったかのように会社に戻る。
資本論的視点から見た労働者の飲み会
マルクスの『資本論』では、労働者は労働力の再生産のためにわずかな賃金を受け取り、その賃金を次の日の労働のために消費する。食事、住居、そして娯楽。酒場での一杯も、その「再生産コスト」に含まれているのだ。
資本家の搾取構造においては、酒は決して贅沢品ではなく、むしろ労働者階級の“必要経費”である。私が赤提灯で飲むその酒は、快楽ではなく搾取の延長線上にあるのだ。
私自身、その構造に気づきながらも、断ち切れない。自分の意思で酒を飲んでいるつもりが、実は搾取のサイクルに取り込まれている。これが「勤め人の麻薬」と称する所以である。酒に救われているようで、実は酒に縛られているのだ。
酒に奪われる“自分の時間”
さらに困ったことに、この飲み会によって、私の日課が完全に狂う。具体的に言えば、深夜のナンパができない。仕事終わりのナンパは、私にとってルーティンであり、ある種の修行でもある。見知らぬ街を歩き、一期一会の出会いを楽しみ、自己を更新する。そんな機会を、酒によって奪われている。
とはいえ、全否定するつもりもない。最近飲みにいくメンバーは、年齢のせいか飲み方が健全になってきた。だらだらと終電まで飲むのではなく、1時間ちょっとでさっと解散。これなら翌日もそこまでダメージは残らない。帰宅してすぐ布団に入れば、朝はきちんと目が覚める。アルコールが眠りを浅くするという話はよく聞くが、私自身はあまりその感覚を持ったことがない。むしろ爆睡して、翌朝スッキリしていることも多い。
“適度な酒”を選択する
また、酒の席が情報交換の場になっているのも事実だ。職場ではなかなか話せないような裏話や、来期の人事の噂、新しいプロジェクトの布石などが、酒の席ではぽろっと出てくる。これはまあ、役に立つこともある。そういう意味では、週に1回程度の飲み会なら、戦略的に活用する価値はある。
だが、それが2回、3回と増えてくると話は別である。ナンパにも行けず、読書・勉強も中断される。酒を飲んでいる間は楽しい。しかし、それ以外の全ての時間が少しずつ侵食されていく。静かに、しかし確実に。
結局のところ、問題は「酒」そのものではなく、「酒を選ぶ時間」の側にある。疲れている時、判断力が鈍っている時、流されるままに赤提灯に向かってしまう。そこに自分の意思はない。ただの“逃避”である。であるならば、逃避ではなく「選択」に変える必要がある。
酒という麻薬に呑まれるか、操るか
この1週間を振り返り、私は反省した。そして、週のうち4日は自分の時間に充てようと決めた。同僚との赤提灯は週1回まで。週3回はナンパに出て、金曜日は女の子と飲んでセック○する。それくらいの距離感で、酒とは付き合っていきたい。
酒は確かに麻薬である。しかし、それをコントロールできるか否かで、勤め人の人生は大きく変わるのだ。
おしまい