
戦場としての職場
「今日は機嫌がいいな」と思ったのも束の間、昼過ぎには舌打ちされる。そんな上司と働いていると、評価とは何か、感情とは何か、信じるべきものは何か、と考えずにはいられない。
私の職場には、気分にムラがある上司がいる。年頃の女子高生のようである。
昨日はほめてきたかと思えば、今日は冷たい態度。何か失敗したのかと思えば、ただ寝不足だったらしい。要するに、こちらのパフォーマンスとは無関係に、評価が上下する世界。つまり、“心理的安全性ゼロ”の職場である。
そうした環境で自分の心をすり減らすのはバカバカしい。どうしたらいいだろうか。
「怒られても気にしない」これだけだとなかなか難しいのだが、同時に
「褒められても喜ばない」ことを、自分の中のルールにする。
そう決めると、怒られても以前ほど動じなくなる。
本稿では、この感情設計がなぜ有効かを論じてみたい。
上司はコントロールできない
多くの人が、「職場が生きづらい」と感じる最大の理由は、人間関係が不安定だからだろう。そして、その不安定の源はたいてい「上司」である。
なぜなら、上司は立場の上下関係を利用して、我々の心に“入り込んでくる”。それは、褒めるという形でも、叱るという形でも発動する。言葉一つでこちらの1日を左右する。これほど面倒な存在はない。
だが忘れてはいけないのは、上司の感情や言動は自分にはどうしようもないということだ。今日機嫌がいいかどうかは、昨夜の酒の量や夫婦関係に左右されているかもしれない。それをいちいち気にして、自分の自己評価を上下させるなど、まったくもって割に合わない。
「褒めに乗らない」という選択
ここで重要なのが、「褒められても乗らない」ことである。
本来、褒められることは気持ちのいい行為だし、それを全て否定するつもりはない。だが、大きな問題はそこに安心してしまうことである。「上司が自分を認めてくれた」→「自分は価値ある存在なんだ」「俺も成長したな」と錯覚し始めた瞬間、その評価軸は外に向かって固定される。つまり、“外的承認中毒”が始まる。
そうなると、次に否定されたときの落差はデカい。褒めに喜んだ分だけ、怒りに傷つくのだ。
だから私は、褒めをただの“情報”として処理することにした。「ああ、今日は調子いいんだな」「たまたま成果が見えやすかったんだな」くらいに受け流す。感情は動かさない。
まるで、褒め→「1」を入力、怒り→「0」を入力するくらいの機械的な処理のように。
その代わり、自分が納得できたかどうかを内側の評価軸とする。これが、怒られても冷静でいられる土台となる。
「叱責」にも無風で立つ
褒めに乗らない人間は、叱責にもまた、必要以上に傷つかない。これがポイントだ。
なぜなら、両者は表裏一体の評価に過ぎないからである。褒める人は同じ口で貶す。昨日の“Good job!”が、今日は“何やってんだ”に変わる。それが人間だ。
だからこそ、私は怒られたという事実よりも、「相手が怒っている理由」を冷静に読み取ろうとする。自分の言動に問題があれば修正するし、ただの八つ当たりであれば静かに距離を取る。感情の反応は、最小限に抑える。
「喜ばなかったから、落ち込まない」
この原理は想像以上に強い。人間のメンタルは、プラスの感情とマイナスの感情が同じルートでやってくる。ならば、最初から“無風地帯”に身を置くほうが賢明なのだ。
内的基準で生きる強さ
実際、できることなら私は評価されたいと思う。だが、それが誰かの気まぐれによってもたらされる評価であれば、いらない。
仕事のクオリティは自分が一番わかっている。他人に褒められても、それが自分の基準に満たなければ意味がない。逆に、他人に叱られても、自分の中でやり切った感覚があればそれでいい。
この“内的基準”こそが、ブレない軸を作る。
他人の評価を期待して仕事をしている限り、それはパフォーマンスだ。観客のいない舞台に立っても、同じように踊れる人間だけが、本当に強い。
おわりに──静かなる強者であれ
褒められても喜ばない。
怒られても落ち込まない。
その冷静さを保てる人間こそ、変化の激しい組織や、理不尽な環境においても、サバイブできる。
誰かの承認がなければ不安、という人間は、やがて承認を得られなくなったときに壊れてしまう。だが、最初から期待していない人間は、誰よりも強い。
結局のところ、現代の職場は「静かな戦場」である。
そこに立つ自分は、無風で、しかし確実に成果を積み上げていく。
私にとって、褒めも怒りもすでにただの風だ。
風が吹こうが吹くまいが、私は今日も静かに、己の道を歩いていく。
おしまい