一匹狼の回顧録

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読む前に読む時代に、なぜ通読するのか──AIと要約が変えた読書の風景

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ChatGPTをはじめとする生成AIの登場によって、「本を読まなくても本の内容はわかる」時代が到来した。ページを一枚もめくらずに、要点・結論・構成・反論・著者の思想までもが、わずか数十秒で手に入る。しかも、こちらの要求に応じて100文字にも3,000文字にもなる。ビジネス書でも哲学書でもお構いなしである。


では、この時代において、我々はなぜ「本を通読する」のか。あるいは、本を通読する意味はどこに残されているのか。これは読書家にとって、生き方の再定義にすら関わる問題である。

 

プロの要約より、AIの即席要約の方が優れる時代

まず最初に直面するのが、Flierのような要約サービスの立場だろう。ビジネス書を10分で読める要約メディアとして人気を博したが、生成AIの発展により、その存在意義は根本から揺らいでいる。

 

Flierの要約はその道のプロによるものである。だが、その「プロの目線」すら、今やAIが再現可能であるばかりか、読者個別のニーズに合わせた“パーソナライズ要約”の方が柔軟で使いやすいという状況が生まれている。


たとえば、「この本の要点を初心者向けに300文字で」「中学生でも理解できるように」「この業界の視点から整理して」など、従来の一方通行な要約サービスでは到底提供できない細やかな応答が、AIなら可能だ。もはや「要約」という機能価値は、無料で高度にコモディティ化してしまったのである。

 

“読む前に読む”──AI時代の新たな読書様式

しかし、これを単なる危機ととらえるのは早計である。むしろ、生成AIの要約は「読む前に読む」という新しい読書の入り口を与えた。これは、地図を持って山に登るようなものだ。全体の構造が見えていれば、迷いにくく、読み進めるスピードも格段に上がる。ビジネス書や実用書であれば、要約を読んでから本編に入る方が理解が深まるという読者も多い。


事前に読めば、その本が自分にとって読む価値があるのかどうかを判断できる。読む前に、読むべきかどうかを選べるという点で、「要約を読む」は“知的スクリーニング”の手段である。これは確かに現代的でスマートな読書戦略といえよう。

 

だが要約は、読書の自由を奪う

ただし、この「読む前に読む」には副作用もある。もっとも大きいのは、要約によって読者の思考が“枠づけ”られてしまうことだ。つまり、「この本はこう読むべき」というフィルターを最初にかけられてしまうのである。

 

その結果、要約に出てこなかった小さな記述や、自分にとって大切になる発見が見逃されてしまう。誰かが“重要だ”と決めたポイントしか拾わなくなる。さらに、要約者の解釈がそのまま“正解”として刷り込まれる危険もある。これは、読書の偶然性や意外性、すなわち「他人が見落としたところに自分だけが光を見出す」醍醐味を失わせる。

 

読書とは本来、著者との“対話”であり、自分だけの気づきを拾い集める営みである。要約はその自由を奪う側面もある。

 

ジャンルによって“要約の使い方”は変わる

要約と通読のバランスは、ジャンルによって大きく異なる。

ビジネス書であれば、全体構造と要点が重要であり、「要約→拾い読み」という読み方が合理的である。実用書も同様で、必要な情報だけ取り出せばいい。逆に小説やエッセイは、“通読しなければ意味がない”代表格だ。物語の流れや文体のリズム、行間に宿る感情の機微は、要約ではまったく再現できない。

 

また、哲学書思想書の場合、要約を先に読むことはしばしば“思考の旅”を殺す行為となる。著者の問い、仮説、迷い、矛盾、再構築といったプロセスこそに意味があるからだ。結論を先取りすれば、その過程に身を委ねることができなくなる。

 

要するに、要約を読むかどうかは、読書の“目的”と“ジャンル”によって選び分けるべきであり、一律のルールは存在しない。

 

通読とは、情報ではなく“人格”を得る行為である

結局、通読の最大の価値は、情報収集ではなく“人格変容”にある。

誰かの本を一冊、数時間かけて読むということは、その人の思考と時間を疑似体験することに等しい。言葉の選び方、語り口、構成、抑揚、エピソード、それらすべてに著者の“生き方”が滲み出ている。通読するとは、著者の精神の中に一定時間、身を置くことなのだ。

 

だから読書とは、情報を得る行為であると同時に、「誰と、どれだけ長く、対話を交わすか」という選択でもある。そこには人格の摩耗も、同化も、批判も、そして変容も含まれている。

 

おわりに──AIで効率化した先に残るもの

要約の時代は確かに到来した。だがそれは、通読の意味が失われたことを意味しない。むしろ、「なぜ読むのか」「どんなふうに読むのか」がこれまで以上に問われる時代になったということだ。

AIが要約するなら、人間は“通読の意味”を取り戻すしかない。読むとは、時間をかけて、自分を変える営みである。それは効率では語れない、非合理な選択であり、だからこそ尊い

読む前に読む。だが、読むからこそ、読めるものもある。

 

おしまい