一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

「努力」と「労働」のあいだで――ChatGPTと、ある夜の報告書

f:id:alonewolf_memorandum:20250605230520p:image

残業の夜には、いつもと違う雰囲気を感じる。

職場の人が減っていくにつれ、空気がやけに澄んで行き、「今、この時間をどう使うか?」と問われている気がする。

 

昨夜もそうだった。

トラブル報告のドラフトをひとり書き進めるうち、ふと、あるセリフが頭をよぎった。

村上春樹の『ノルウェイの森』に登場する、永沢という人物の台詞である。

 

「あれは努力じゃなくて、ただの労働だ」

 

この言葉を初めて見たのは20歳くらいの頃だった。

冷たく聞こえるその断言に、なぜかすっと腹落ちした。

努力とは主体的で、目的的に行われるものであり、ただ“やらされている”ことに自分を使い潰すのは、すべて「ただの労働」だという考え方。

 

彼の語る「努力」は、美学に近かった。

当時からその価値観には不思議と共鳴するものがあり、気づけば自分の中にもその物差しが根を張っていた。

 

ChatGPTとの「報告書づくり」は努力だったか?

昨夜、自分が書いていたのは、ごく普通のトラブル報告書である。

いつも通りに事実を並べ、定型の構成で仕上げれば、それなりには見える。

だが、それではただの“労働”にすぎない。

 

ふと、自分の中でスイッチが入った。

「この報告書は、単に謝るための文書なのか?」

「読む側の人間にとって、論理的で読みやすい内容か?」

そんな問いをChatGPTに投げてみた。

 

AIは、事実を並べただけでは分からなかった因果や構造を、対話を通じて整理してくれた。

文章の流れを変え、キーワードを見直し、再発防止策に“普遍性”を持たせた。

報告書は、「事実」から「提案」へと姿を変えていった。

 

そのプロセスは、義務感に押された単純作業ではなく、思考を深める知的な鍛錬だった。

それはまぎれもなく、永沢が言うところの“努力”だと思った。

 

なぜ、永沢の言葉が刺さったのか

ノルウェイの森』の中で、永沢はこう続けていた。

 

「俺の言う努力とはそういうものじゃない。努力というのはもっと主体的に、目的的になされるもののことだ」

 

彼は語学の習得も、人間関係の構築も、すべて自らの意志で選んだこととして行っていた。

英語とドイツ語とフランス語はもうできあがっていて、次はスペイン語だと涼しい顔で言う彼の姿には、ストイックであると同時に、どこか美しさすらあった。

 

そして、報告書の文面とにらみ合いながら自分がやっていたのも、“やらされていた”わけではなかった。

もっと伝わるように、もっと汎用化できるようにと、自ら考え、構成を練り直していた。

この主体性が大切だ。

あれは、労働ではなかった。努力だった。

 

残業という名の鍛錬の場

たいていの残業は、ただの疲弊で終わる。

たとえば、誰かの顔色を伺いながら、“抜け漏れのない文書”を作るような。

 

だが、そこに自分の意志を注げば、話は変わる。

作業が仕事に変わり、

労働が努力に変わり、

時間が“自分を鍛える場”になる。

 

ChatGPTはそのための道具になる。

単なるアウトソーサーではない。

思考を問い直す、もうひとつの頭脳として使えば、

報告書すら“考える訓練”へと変貌する。

 

まとめ:「自分は努力の側にいたか?」

努力か、労働か。

その境界線は、他人には見えにくい。

だが、自分にとってははっきりしている。

 

昨晩、自分はただタスクをこなしていたのではない。

より良いものを、より深く考えて仕上げようとしていた。

ChatGPTの力を借りながら、自分自身と格闘していたのだ。

 

永沢がそうであったように、自分もまた、

「意味のない労働には魂を預けない」という姿勢で日々を過ごしたいと思う。

ノルウェイの森 (講談社文庫)

 

おしまい