
残業の夜には、いつもと違う雰囲気を感じる。
職場の人が減っていくにつれ、空気がやけに澄んで行き、「今、この時間をどう使うか?」と問われている気がする。
昨夜もそうだった。
トラブル報告のドラフトをひとり書き進めるうち、ふと、あるセリフが頭をよぎった。
村上春樹の『ノルウェイの森』に登場する、永沢という人物の台詞である。
「あれは努力じゃなくて、ただの労働だ」
この言葉を初めて見たのは20歳くらいの頃だった。
冷たく聞こえるその断言に、なぜかすっと腹落ちした。
努力とは主体的で、目的的に行われるものであり、ただ“やらされている”ことに自分を使い潰すのは、すべて「ただの労働」だという考え方。
彼の語る「努力」は、美学に近かった。
当時からその価値観には不思議と共鳴するものがあり、気づけば自分の中にもその物差しが根を張っていた。
ChatGPTとの「報告書づくり」は努力だったか?
昨夜、自分が書いていたのは、ごく普通のトラブル報告書である。
いつも通りに事実を並べ、定型の構成で仕上げれば、それなりには見える。
だが、それではただの“労働”にすぎない。
ふと、自分の中でスイッチが入った。
「この報告書は、単に謝るための文書なのか?」
「読む側の人間にとって、論理的で読みやすい内容か?」
そんな問いをChatGPTに投げてみた。
AIは、事実を並べただけでは分からなかった因果や構造を、対話を通じて整理してくれた。
文章の流れを変え、キーワードを見直し、再発防止策に“普遍性”を持たせた。
報告書は、「事実」から「提案」へと姿を変えていった。
そのプロセスは、義務感に押された単純作業ではなく、思考を深める知的な鍛錬だった。
それはまぎれもなく、永沢が言うところの“努力”だと思った。
なぜ、永沢の言葉が刺さったのか
『ノルウェイの森』の中で、永沢はこう続けていた。
「俺の言う努力とはそういうものじゃない。努力というのはもっと主体的に、目的的になされるもののことだ」
彼は語学の習得も、人間関係の構築も、すべて自らの意志で選んだこととして行っていた。
英語とドイツ語とフランス語はもうできあがっていて、次はスペイン語だと涼しい顔で言う彼の姿には、ストイックであると同時に、どこか美しさすらあった。
そして、報告書の文面とにらみ合いながら自分がやっていたのも、“やらされていた”わけではなかった。
もっと伝わるように、もっと汎用化できるようにと、自ら考え、構成を練り直していた。
この主体性が大切だ。
あれは、労働ではなかった。努力だった。
残業という名の鍛錬の場
たいていの残業は、ただの疲弊で終わる。
たとえば、誰かの顔色を伺いながら、“抜け漏れのない文書”を作るような。
だが、そこに自分の意志を注げば、話は変わる。
作業が仕事に変わり、
労働が努力に変わり、
時間が“自分を鍛える場”になる。
ChatGPTはそのための道具になる。
単なるアウトソーサーではない。
思考を問い直す、もうひとつの頭脳として使えば、
報告書すら“考える訓練”へと変貌する。
まとめ:「自分は努力の側にいたか?」
努力か、労働か。
その境界線は、他人には見えにくい。
だが、自分にとってははっきりしている。
昨晩、自分はただタスクをこなしていたのではない。
より良いものを、より深く考えて仕上げようとしていた。
ChatGPTの力を借りながら、自分自身と格闘していたのだ。
永沢がそうであったように、自分もまた、
「意味のない労働には魂を預けない」という姿勢で日々を過ごしたいと思う。
おしまい
