
出世は運、だからといって…
この前の記事にも書いた通り、私は職場でなるべく感情の浮き沈みを抑えるよう意識している。褒められても過剰に喜ばず、叱られても必要以上に落ち込まない。そうやって、心の平静を保つことが長く働くうえで重要だと信じているからだ。
とはいえ、平穏無事なだけの毎日には、どこか物足りなさも感じる。誰にも何も言われず、何も求められず、ただこなしていく仕事には、刺激がない。だから最近は、感情を大きく揺らさない範囲で、競争を楽しむようにもしている。隣の席のあいつよりも、一本でも多く数字を取る。資料を作るスピードと精度を周囲より高める。そういう小さな競争が、実はけっこう面白い。
もちろん、出世なんていうものは運である。これは間違いない。上司との相性、組織の再編、タイミング、空席の有無。実力だけで乗り越えられるほど、組織は単純ではない。だが、だからといって、「運任せだから努力しても無駄」となるのは、あまりに短絡的だ。
コントロールできないものに振り回されない
世の中には、自分の努力でどうにもならないことがたくさんある。出世もそうだが、顧客の気まぐれや、上層部の方針変更、部門異動など、予測不能な出来事に日々振り回される。だが、そうした「不可抗力」にまで心を奪われてしまうと、精神がもたない。
大事なのは、自分でコントロールできる範囲をきちんと見極め、その範囲において手を抜かず最大限を尽くすことだ。ロジカルに物事を整理する、目の前の資料を丁寧に仕上げる、提出期限を守る、調査を徹底する。そういう地道な行動の積み重ねこそが、最終的に他者との差を生む。
目の前のタスクを完遂することの価値
「この仕事、意味あるのか?」と思うような作業は、どの会社にも存在する。だが、意味があるかどうかは、往々にして後から分かるものだ。たとえ会社の方針が翌月には変わり、その資料が使われなくなったとしても、その作成過程で得た情報やスキル、スピード感は自分の血肉となる。
だから、多くの仕事には無駄はない。目の前のタスクを一つひとつ潰していくことが、自分の信頼と実力を育てる。それに、仕事を通して成長するのは、いつだって「細部」からだ。大きな成果よりも、細かな精度にこだわる人間の方が、結果として大きな信頼を勝ち取る。
知識・スキル・成果——勝ち続けるための地道な積み上げ
特別な才能があるわけでもない人間が、組織の中で生き残るには、地道な積み上げしかない。知識を蓄え、スキルを鍛え、成果を形にする。これを毎日やる。天才的な成果は出せなくても、着実な成長は積み上げられる。
特に、業務外の時間を使って自己投資する習慣は、長い目で見て大きな差になる。読書、資格、業界研究、ツールの習得。これらは明日すぐに成果が出るものではないが、2年後、3年後には確実に違いを生む。しかも、転職市場においてはこの蓄積が「可視化」されやすい。社内で報われなかった努力も、外の世界では正当に評価されることがある。
「努力が報われる」とは限らないが、「努力しない者が報われることもない」
残酷なようだが、努力が報われるとは限らない。これは事実である。ただし、努力しなかった者が報われることは、まずない。これはもっと確かな事実である。だから、どうせやるなら「やって損はない努力」を積み重ねるべきだ。
特に転職を考えたとき、自分が社外でも通用する人材かどうかは、努力の軌跡に現れる。専門性のあるスキル、汎用的な実績、社外プレゼンス。これらが備わっていれば、たとえ社内評価が低くても、新天地で評価される可能性は高い。努力とは、未来の選択肢を広げるための“保険”でもある。
まとめ:自分の影響範囲において手を抜かない覚悟
結局、すべては「自分が影響を及ぼせる範囲」で何をするか、である。上司を選ぶことはできないし、会社の方針も変えられない。だが、自分の言葉をどう磨くか、どんな姿勢で仕事に向き合うかは、完全に自分の裁量である。
ただし、ひとつだけ気をつけたいのは、「やりがい搾取」に陥らないこと。仕事に本気で向き合うことと、無限に残業して身を削ることは別問題だ。努力は大切だが、自分の時間や体力を守る意識もまた、同じくらい大切である。
だからこそ、私はこう考えるようにしている。
「出世は運。でも、努力は自分次第」
その努力を、時間の許す限りで最大限やっていく。それが、後悔しないための最低条件だと思っている。
おしまい