とあるNHKのニュース
先日、とあるNHKのニュースにて、「英語などで授業の小中学校 この5年で2倍近くに 人気の理由は」という見出しを目にした。
この5年間で、算数・社会・理科といった科目を英語で教える小中学校が2倍に増えたらしい。
おそらく、これは時代の流れであり、旧態依然としている学校教育において必要な進化であるとも言える。私も、英語の早期教育そのものを否定するつもりはない。むしろ賛成である。
しかし、問題はその「土台」だと思っている。
「英語ができる」、だから何なのか
私のまわりにも、「英語が話せます」と胸を張っている輩がいる。海外経験あり、発音もそれなり、TOEICの点数も高い。立派なことだとは思う。私自身、英語が話せないから。
だが、彼ら・彼女らが話している内容をよくよく聞くと、どうにも薄っぺらい。
たとえば、衆議院と参議院の違い(衆議院の優越とか)も知らないし、明治維新は誰が主導したかもあやふやだ。
要するに、「英語が話せる自分」に酔っているだけで、その中身が伴っていないように見えるのだ。彼らの話は、どこか空虚で、深みがない。それどころか、母語である日本語すら危ういケースがある。単語の選び方が雑で、語彙が貧弱なこともしばしばだ。
私はこういう人間を、まったく尊敬できない。
母語と思考の関係
日本語が弱いということは、つまり思考力が弱いということだ。母語で深く考える訓練を怠った人間が、英語で何を語れるというのか。
また悪口になるが、そういう連中は、国内を旅行するとしても、SNS映えする「景色が綺麗な場所」にばかり行きたがる傾向がある。
古い町並みや史跡に足を運んでも、「なんか古い建物があるね。私は興味ない」で終わる。彼らにとっては、そこにどんな歴史的背景や人物のドラマがあるかなど、どうでもいいのだ。だから京都に行っても、寺の由来も知らずにただ写真を撮るだけ。そういう姿を見ていると、「この人、どこへ行っても何も得ないんだろうな」とすら思う。
旅とは本来、その土地の記憶に触れて楽しむ行為だ。風景を見ながら、その背後にある時代や人間の営みに思いを馳せる——それこそが旅の醍醐味だと私は思う。
それができない人間は、風景の表面をなぞって終わる。つまり、どこへ行っても、深く味わうことができない。これは知的生活を送る上で、致命的な欠点だと私は思っている。以前、こういった趣旨を書いたところクソリプが飛んできたが、この思いは変わっていない。
ましてや、日本の中で生き、日本の社会で働き、日本の政治に影響を受けながら生きている限り、日本語と日本の歴史・文化・政治を理解していなければ、社会人としての基礎体力を欠いたままと言わざるをえないだろう。
英語で学ぶ授業の意義と今後への期待
そういう意味で、今回のニュースで紹介されていたような「義務教育の教科を英語で学ぶ」取り組みは、非常に興味深い。正直、羨ましいとすら思う。
「日本のことを、世界の共通語である英語で説明する」という訓練は、大人になってからより多くの他者に伝える能力を鍛える上で極めて有効であろう。
私が危惧するのは、英語を「ステータス」としてだけ使い、「内容の空っぽな英語自慢人間」が量産されることだ。そうではなく、英語をで日本を語れる人間が育っていくのであれば、これほど希望の持てる教育改革はないと思う。
グローバル化の時代に生きる我々にとって、英語の重要性は言うまでもない。
しかし、だからといって母語を軽んじていい理由にはならない。日本語は日本人としての骨格とも言える。
「英語で授業をする学校が増えている」——この流れを、私は歓迎する。ただし、それが「英語を話せるだけの空虚な人間」を育てるものではなく、「自国を深く理解し、世界に語れる人間」を育てるものであってほしい。愛国者の私からすると、そう願ってやまないのである。
おしまい