
忙しさは、美徳か?
あくせくと働くことが美徳だとされる職場にいる。
朝から晩までメール、打ち合わせ、資料作成の無限ループがデフォ。タスクをこなすこと自体が目的化し、終業後にはぐったりと椅子に沈み込む。仕事はしている。だが、果たしてそれは「いい仕事」なのだろうか。
そんな中で思い出したのは、かつて同じ部署にいた一人の先輩のことである。超がつくほど優秀で、だが職場の“空気”には馴染まない人物だった。彼はよくこう言っていた。
「余裕綽々じゃないと、いい仕事はできない」
当時の私は内心で反発していた。「仕事しろアホ」と。
優雅に珈琲を飲みながら考えごとをしているその姿に、私は苛立ちさえ覚えていた。だがいま、自分がAIを使いこなし、業務効率を上げようとしている現在、その言葉の意味を考え直している。
余裕がないと「考える時間」が奪われる
その先輩は、何もサボっていたわけではない。彼は常に成果を出していたし、問題が起きれば最短で解決の糸口を見つけてくる。どこか“暇そう”に見えるのに、いつの間にかすごい仕事をしている。とても不思議な存在だった。
その理由は単純である。
彼には「考える時間」があったのだ。
目の前のタスクに忙殺されず、一歩引いて全体を俯瞰し、最短ルートで成果を出す。余裕とは、仕事の“量”を減らすことではない。余裕とは、思考の“質”を確保するための条件なのだ。
焦って働くことが、必ずしも成果につながるわけではない。むしろ、焦りによって視野が狭まり、効率も下がる。「考える時間」の欠如こそが、凡庸なアウトプットの最大の原因になる。
作業をAIに任せ、思考のための余白をつくる
近年、ChatGPTをはじめとする生成AIの進化によって、「手を動かす」作業は急速に自動化されつつある。私自身、議事録の要約や資料のたたき台づくり、簡単なアイデア出しまでをAIに任せるようになった。以前なら数時間かかっていた作業が、今では10分で済むこともある。
こうして浮いた時間で何をするか――それが重要である。休むのもいい。だが私は、あえて「考える時間」に充てることを意識している。企画を練る、問題解決の案出しをする、リスクを検討する。
「作業」はAIに、「思考」は人間に。これがこれからの働き方の基本構図になるだろう。
人間に残された仕事は「発想」と「判断」だけかもしれない
生成AIが得意とするのは、既存の情報を再編し、一定の条件下で最適解を出すことだ。だが、“問い”を立てるのは人間の仕事である。これは「発想」の領域である。
そして、複数の解が存在する場面で、どれを選ぶか。数字では割り切れない文脈を読み取り、最後の決断を下す――これが「判断」である。発想と判断、この前後の工程にこそ、人間が介在する意義がある。
効率よく作業を進めることは大事だ。だが、最初と最後にだけ人間が出てくるような世界では、その“出番”にどれだけの重みと覚悟をもって臨むかが問われる。
あの忙しさも、無駄ではなかった
もちろん、今の自分にとって「余裕のある働き方」がしっくりくるのは、ある程度の経験を積んだからだと思う。これは間違いない。
入社当初、まったくの未経験で飛び込んだ今の業界では、細かい知識も所作も、全てが学びだった。右も左も分からない中、あえて手を動かし続けた日々――それも必要な通過儀礼だったと思う。
あの時間があったからこそ、今こうして「考える時間の価値」に気づけたのかもしれない。あの忙しさの中で、自分なりの勘所や判断軸を養ったことも確かである。ただ、それにずっと浸かっていては、次のステージには進めない。
小言と冷酒は、あとで効く
「余裕綽々じゃないと、いい仕事はできない」
あの先輩の言葉は、かつては冗談のように聞こえたし、バカにしていた面もある。
だが今では、これは一種の金言だと思っている。実際、彼のような人が辞めていった後の職場には、「忙しそうだが仕事の精度が低い人間」が増えている。これは偶然ではないだろう。
仕事ができる人間は、余裕を持っている。そこにこそ、他人が真似できない仕事術がある。
いま思えば、あれはよく安居酒屋のトイレに貼っている「親父の小言と冷酒はあとで効く」というやつである。AI時代において最も人間的な能力とは何か――その問いに立ち返ったとき、答えは案外シンプルで、昭和の親父の小言に回帰していたりするのだ。
おしまい