一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

余裕綽々じゃないと、いい仕事はできない(先輩の小言)

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忙しさは、美徳か?

あくせくと働くことが美徳だとされる職場にいる。

朝から晩までメール、打ち合わせ、資料作成の無限ループがデフォ。タスクをこなすこと自体が目的化し、終業後にはぐったりと椅子に沈み込む。仕事はしている。だが、果たしてそれは「いい仕事」なのだろうか。

 

そんな中で思い出したのは、かつて同じ部署にいた一人の先輩のことである。超がつくほど優秀で、だが職場の“空気”には馴染まない人物だった。彼はよくこう言っていた。


「余裕綽々じゃないと、いい仕事はできない」

 

当時の私は内心で反発していた。「仕事しろアホ」と。

優雅に珈琲を飲みながら考えごとをしているその姿に、私は苛立ちさえ覚えていた。だがいま、自分がAIを使いこなし、業務効率を上げようとしている現在、その言葉の意味を考え直している。

 

余裕がないと「考える時間」が奪われる

その先輩は、何もサボっていたわけではない。彼は常に成果を出していたし、問題が起きれば最短で解決の糸口を見つけてくる。どこか“暇そう”に見えるのに、いつの間にかすごい仕事をしている。とても不思議な存在だった。

 

その理由は単純である。

彼には「考える時間」があったのだ。

 

目の前のタスクに忙殺されず、一歩引いて全体を俯瞰し、最短ルートで成果を出す。余裕とは、仕事の“量”を減らすことではない。余裕とは、思考の“質”を確保するための条件なのだ。

 

焦って働くことが、必ずしも成果につながるわけではない。むしろ、焦りによって視野が狭まり、効率も下がる。「考える時間」の欠如こそが、凡庸なアウトプットの最大の原因になる。

 

作業をAIに任せ、思考のための余白をつくる

近年、ChatGPTをはじめとする生成AIの進化によって、「手を動かす」作業は急速に自動化されつつある。私自身、議事録の要約や資料のたたき台づくり、簡単なアイデア出しまでをAIに任せるようになった。以前なら数時間かかっていた作業が、今では10分で済むこともある。

 

こうして浮いた時間で何をするか――それが重要である。休むのもいい。だが私は、あえて「考える時間」に充てることを意識している。企画を練る、問題解決の案出しをする、リスクを検討する。

「作業」はAIに、「思考」は人間に。これがこれからの働き方の基本構図になるだろう。

 

人間に残された仕事は「発想」と「判断」だけかもしれない

生成AIが得意とするのは、既存の情報を再編し、一定の条件下で最適解を出すことだ。だが、“問い”を立てるのは人間の仕事である。これは「発想」の領域である。

 

そして、複数の解が存在する場面で、どれを選ぶか。数字では割り切れない文脈を読み取り、最後の決断を下す――これが「判断」である。発想と判断、この前後の工程にこそ、人間が介在する意義がある。

 

効率よく作業を進めることは大事だ。だが、最初と最後にだけ人間が出てくるような世界では、その“出番”にどれだけの重みと覚悟をもって臨むかが問われる。

 

あの忙しさも、無駄ではなかった

もちろん、今の自分にとって「余裕のある働き方」がしっくりくるのは、ある程度の経験を積んだからだと思う。これは間違いない。

入社当初、まったくの未経験で飛び込んだ今の業界では、細かい知識も所作も、全てが学びだった。右も左も分からない中、あえて手を動かし続けた日々――それも必要な通過儀礼だったと思う。

 

あの時間があったからこそ、今こうして「考える時間の価値」に気づけたのかもしれない。あの忙しさの中で、自分なりの勘所や判断軸を養ったことも確かである。ただ、それにずっと浸かっていては、次のステージには進めない。

 

小言と冷酒は、あとで効く

「余裕綽々じゃないと、いい仕事はできない」

 

あの先輩の言葉は、かつては冗談のように聞こえたし、バカにしていた面もある。

だが今では、これは一種の金言だと思っている。実際、彼のような人が辞めていった後の職場には、「忙しそうだが仕事の精度が低い人間」が増えている。これは偶然ではないだろう。

 

仕事ができる人間は、余裕を持っている。そこにこそ、他人が真似できない仕事術がある。

いま思えば、あれはよく安居酒屋のトイレに貼っている「親父の小言と冷酒はあとで効く」というやつである。AI時代において最も人間的な能力とは何か――その問いに立ち返ったとき、答えは案外シンプルで、昭和の親父の小言に回帰していたりするのだ。

 

おしまい