
今日は、特段一日何も起きなかった。
朝はいつも通りに起き、職場でも特筆すべきトラブルはなく、夜は静かに帰宅。あとは寝るだけ。こんなふうに全く何もない日は、案外珍しいかもしれない。
けれど、不思議なことに、その“何もなさ”が心地よかった。今日という日は、うまくいったわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。
それでも、
「こんな日がずっと続けばいい」
ふと、そんなことをしみじみと思ったのである。
眠くなるままに眠れることの、幸福
若い頃の自分は、よく眠れなかった。
布団に入ってからも、あれこれ思考が回って、気づけば明け方になっているような夜もあった。仕事のこと、将来のこと、人間関係のこと、女のこと。
だが最近、何でもない日ほど、よく眠れる。
むしろ、そんな何でもない日にこそ、深く眠れるのである。
食事をし、シャワーを浴び、布団に入って、眠くなるままに目を閉じる。
そのまま、何も気にせずに朝を迎える。
これがどれほど贅沢なことか、おっさんになってようやく気づいたのかもしれない。
好きな女と過ごす夜
そんな何もない日々の中に、ときおり現れる“特別な夜”がある。
彼女とは、マッチングアプリで1年半前に知り合った。
関係性としては依然として曖昧で、恋人ではない。でも友達というには、深い。いわゆる「既存さん」である。
しかし、これまでの既存さんの中でも彼女は格別だ。
彼女は、私の好きな“ガリガリ体型”で、話していても変に気を遣わなくて済む。
そして、何より、金銭感覚が合っている。
大衆居酒屋で一緒に笑いながら飲んで、安いつまみをシェアしながら、「高い料理ってコスパ悪くね?」なんて話をする時間が妙に心地よい。
酔いが回ったころ、お互いの家のどちらかへ移動して二次会。
缶チューハイをもう何本か開けて、テレビをつけたままソファに座る。
会話が途切れたあとにお互い黙々とスマホをいじる、あの無言の時間も嫌いじゃない。
そして、自然な流れでセッ○スをする。
翌朝になればまた何事もなかったかのように別れて、また隔週のどこかで会う。
互いに干渉しない関係。本当に恵まれていると思う。
毎日に感謝するという、生き方
当たり前に仕事をし、当たり前にメシが食えて、当たり前に寝られる。
それがどれほどありがたいことか、我々はちゃんと意識した方がよい。
とはいえ、感謝の気持ちは放っておけばすぐに薄れてしまう。
だからこそ、いくつかの“習慣”で、それを毎日きちんと呼び戻すようにしている。
たとえば、朝一番に手帳を開いて、自分で書いたミッションステートメントを確認すること。
「自分はどう生きたいのか」を、毎日ほんの数行だけでも思い出す。そうすることで、日常の細々としたことにも方向性が出てくる。
夜には日記をつける。
今日はどんな一日だったか、何を感じたか。誰と何を話し、どんなことに腹を立て、嬉しかったのか。たとえ5分でもペンを動かすことで、「今日という日」をちゃんと手放せるようになる。
そして一番大事にしているのは、どれほど疲れていても、タバタ式トレーニングを最低1セットやる。
わずか4分で心拍数を上げ、自分の体に「まだやれる」と言い聞かせる。
この三つ――
「ミッションステートメントで始まり、日記で終わり、タバタで自分を締める」
そして、そういう当たり前に、誰かと交わえる夜が加われば、もう十分すぎるほどだ。
一年365日、すべてが記憶に残るようなドラマチックな日になる必要はない。
でも、毎日に感謝できる人間でいられたら、その365日はすべて“幸せな日”になる。
10年で3,650日。
それが全部幸せだったら、それはもうどう考えても“勝ち”である。
金や名声より、そっちの方がよほど誇らしい人生だと思う。
しっぽりと終える、人生の一日
「毎日に感謝する」とか、「当たり前を幸せと思う」とか、少し宗教っぽい、あるいはスピリチュアル的に聞こえたかもしれない。でも、そうではない。
私が言いたいのは、もっと地に足のついた話である。
これは“心の持ちよう”とか“気の持ち方”の問題ではない。
むしろ、“幸福感を最大化するための、ごく実用的なライフハック”なのだ。
何か特別なことが起こらなくても、今あるものを肯定できるほうが、人生ははるかにラクだし、長い目で見て得をする。
いちいち不満を探すより、ささやかな満足を拾うほうが、確実にコスパがいい。
美味い酒と、落ち着ける相手と、ぐっすり眠れる夜。
それがそろえば、人間は案外、何の問題もなく生きていけるのだと思う。
おしまい