一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

私の幼少期は、犬のフンとおっぱいとビンタと偏見に満ちていた

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──1990年代前半、“未成熟な自由”と“戦後の残り香”の時代──

気づけば、街はずいぶんきれいになった。

テレビからはおっぱいが消え、教師の怒鳴り声も耳にしなくなった。

親から差別語を聞くことも、もうなくなった。

 

思えば、私が幼少期を過ごした1980年代後半から90年代前半――

街には犬のフンが平然と落ちていた。テレビには乳房が映っていた。

学校では教師のビンタが飛び、家庭では“川の近くに住んでる子とは遊ぶな”などという忠告が平然と口にされた。

 

だが今、それらはすべて「完全にアウト」なことになっている。

 

制度ではなく、社会の“空気”そのものが変わったのだ。

我々のような80年代生まれは、その“変化の境目”を生きた最後の世代である。その記憶を少し今日は書いてみよう。

 

地面にフン、空に煙

小学生の頃、よく町内清掃に動員された。

軍手とゴミ袋を手に、商店街の歩道を回った。

30分もしないうちに袋はパンパンになった。

空き缶、吸い殻、割れた傘、エロ本、そして犬のフン。

それらは特別なゴミではなかった。“日常の風景”だった。

 

犬を散歩させる大人たちは、袋も水も持たず、

フンをしても振り返らずに去っていった。

「自然に返る」「誰かが片付ける」――そういう空気が漂っていた。

 

歩道は、タバコの吸い殻で埋め尽くされていた。

ポイ捨ては“誰でもしてる”ことだった。

駅の灰皿は、いつも山盛りだった。

タバコの煙が、子どもの顔を平気でなでていく。

 

今では考えられないが、当時はそれが普通だった。

 

テレビではおっぱいが笑われていた

テレビもまた、あの頃は“未成熟な自由”に満ちていた。

 

ギルガメッシュないと』『トゥナイト2』『11PM』――

これらは地上波で、しかも家族が普通に視聴していた番組だった。

画面には平然とおっぱいが映っていた。モザイクも配慮もなかった。

 

われわれ男子にとっては“通過儀礼”だった。

友達と「昨日のトゥナイト見た?」と囁き合う日々。

 

ゴールデンタイムでも、女性の体は“笑いの道具”にされた。

スカートをめくる演出、胸元を映すカメラ、罰ゲームで際どいポーズをさせられる女芸人。

それらは“演出”の名の下に、当然のように放送された。

 

誰も「それはおかしい」と思っていなかった(少なくとも私の周りは)。

言葉がなければ、問題は日常に紛れたままだ。

 

教師のビンタも、日常だった

学校でも暴力は当たり前だった。

 

体育の授業で列が乱れればビンタ。

宿題を忘れれば、廊下に立たされる。

怒鳴られ、小突かれ、教壇の下で泣く生徒がいても、それを異常と思う者はほとんどいなかった。

親もそれを「指導の範囲内」として受け入れていた。

 

だが今、それは通用しない。

たった一発のビンタで、SNSに投稿され、炎上し、教師人生が終わる。

それだけ社会が、暴力に対して敏感になったということだ。

 

家庭内にも残っていた“戦後の偏見”

私の記憶の中で根深かったのは、家庭の中にあった“差別語”と“偏見”だ。

 

バカチョンカメラ」「川沿いの子とは遊ぶな」「団地の子は素行が悪い」

こうした言葉が、親の口から平然と出てきた。

もちろん悪意ではなかった。むしろ“子どもを守るための忠告”として発せられていたのかもしれない。

 

だが、それこそが問題だった。

善意の顔をした偏見が、家庭教育の中に染み込んでいた。

親世代は戦後を生き抜き、社会の差別と偏見を“常識”として吸収してきた。

そしてそれを、無意識のまま我々に渡してきた。

 

今思えば、私たちは「偏見を受け取りながら、それを上書きする世代」だったのだ。

 

なぜ“あの風景”は消えたのか

道にフンが落ちていない。

テレビから女性の裸が消えた。

教師が手を出さなくなった。

親が差別語を使わなくなった。

 

それは制度やSNSの力だけではない。

社会の“当たり前”の基準が、静かに、しかし確実に上がった結果である。

 

マナー啓発、環境教育、フェミニズム、児童人権、そして情報共有。

そうした動きが、人々の意識を少しずつ変えていった。

そして、かつては“普通”だったものが、

今では“絶対に許されないこと”になった。

 

未成熟な自由の終焉と、その先の成熟

犬のフンも、おっぱいも、ビンタも、差別語も――

全部が“アウト”になった社会は、たしかに窮屈にも見える。

だがそれは、「他者への配慮」が社会の標準になった証である。これは反論の余地もなく、良いことだと思う。

 

我々の幼少期は、未整理で雑で、野蛮で、どこか懐かしくもある。

だが今、子どもたちはフンを踏まず、暴力に怯えず、

テレビで笑いものにされることもなく、

家庭で偏見を無邪気に刷り込まれることもない。

 

我々は、あの混沌の時代を語れる最後の証人なのかもしれない。ゴミの落ちていない美しい街並みを見て、ふとそんなことを思ったのである。

 

おしまい