
私が前職で冴えない営業マンだった若い頃、朝のオフィスでよく交わされるある種の儀式があった。
上司がふと、「今朝の日経の○○の記事、読んだか?」と呟く。これである。
これは会話というより、絶対に落とせないテストに近い。この瞬間、毎度オフィスにピリっとした雰囲気が満ちる。
答えられなければ、「お前、新聞読んでないのか?」という空気が流れる。
「そんなことじゃ、客に舐められるぞ」――と説教が続くことも多々あった。
この無駄なテスト(商談でごくたまに有益になるのだが)に備えるため、私は毎朝、出社前に日経を開き、1面からマーケット欄、ビジネス面、国際面に至るまで、隅々に目を通すハメになった。興味があるかどうかは関係ない。とにかく読む。いや、読んでおかないといけない。当時は興味がないがゆえ、ほとんど内容も理解できず、若い頃はそれが苦痛で仕方がなかった。
加えて、不幸なことに取引先の社長にも日経を読んでいる前提で話しかけられる場面が多々あった。
「今日、日経に○○特集出てたろ。あれ読んだか?」と。こうなると、朝のテスト第二弾の始まりである。
読んでいなければその時点で商談のスタートラインにも立てない。
だから、新聞を読むことが自己防衛であり、逆に知的武装にもなっていた。
こうして培われた習慣は、今でも尾を引いている。
前職を辞め、誰に読んだかどうかを問われることもなくなった今でも、私は新聞を開くと、どこかで「全部読まなきゃ」という焦りに襲われる。
“読まなくていい記事”まで、とりあえず読んでおかねばと目を滑らせてしまう。この癖をやめたい。
「読み飛ばしていい」と自分に言い聞かせても、身体が勝手に読み進めてしまうのだ。
そしてこの反射の起点にあるのが、間違いなくあの「あの日経の記事、読んだか?」である。
新聞は“武器”ではなく“防具”だった
繰り返しになるが、私は新聞を情報の収集手段として読んでいたのではなかった。
「読んでいない=怠けている」「情報に疎い=使えない」と見なされないためのある種の防具。
だからこそ、読む内容の質よりも、“読んでいるという事実”(=とりあえずその記事を知っていること)が大事だった。
そういう意識で読み続けていれば、新聞を純粋に楽しめるわけがない。
本当は、関心のある記事をじっくり読んで、自分の考えを深めるきっかけにしたいのに、「読まなきゃ怒られる」という義務感が先行する。
困ったことに、この呪縛は時間が経ってもなかなか解けない。いまだにある種のトラウマ的に自分の中に残っている。
今でも私は、「日経新聞を読む」という行為に、自動的に身構えてしまうのである。
情報の“選球眼”を身につけたい
これからは、「読まない勇気」も持ちたい。
重要な記事・自分に必要な記事だけを選んで読んでいい。
むしろそれこそが、情報リテラシーというものだと思う。
自分の仕事や関心に関係のあるものだけを選び、見出しとリード文で「これは読む価値がある」と判断したものにだけ集中する。これが一般的に推奨される新聞の読み方でもある。
そうして厳選した記事の方が、記憶にも残る。
“義務”から“好奇心”へ——読むスタンスを変える
本来、新聞というのはもっと自由で、もっと面白いもののはずだ。
たとえば、国際面の裏に潜むロシアの歴史とか、マーケット欄のチャートが示す投資家心理とか。
どれも、“読まされる”のではなく“もっと知りたい”という感覚があってこそ、意味を持つのだと思う。
かつて取引先の社長が話題にした記事の中には、確かに面白いものもあった。
だが、あの空気の中では「知的好奇心を共有する」というより、「知らないと損をする」という警戒心のほうが勝ってしまっていた。
今ならもっと楽しめるし、自分が関心を持ったテーマについて、時間をかけて学んだっていいと思うのだ。
おわりに
かつての上司の「日経、読んだか?」という圧力は、私にとって確かに成長の一助でもあった。それは認める。
だが、いま私に必要(そして課題)なのは、読むことへの恐れを手放すことだ。
新聞を読むのは、確かに仕事のための側面もあるが、本来は自分の思考を深めたり、自分の知的欲求を満たすためである。
"クオリティペーパー"と言われているだけあって、日経新聞そのものの質は極めて高い。その情報の深さ、分析の切れ味、取材の解像度などなど。
だからこそ、ちゃんと読もうとすると時間がかかる。
これからも一介の営業マンである限り、"読む責任"は全うしつつ、"読む楽しみ"も追求していきいのである。
おしまい