一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

電車で紙の本を読む。可能な限り

スマホだらけの電車

都内の電車に乗ると、座っている人も、立っている人も、ほとんどがスマホの画面を凝視している。

チラっと覗き見する。ニュースを見てるならまだしも、SNS、ゲーム、取るに足らない動画に没頭する者がほとんどである。

ある調査によると、電車内でのスマホ利用率は9割を超えるらしい。つまり、ほとんどの人間が同じような時間の使い方をしているということになる。

少し前にも書いたが、私はこの光景が大嫌いなのだが、「自分も、この中の一人なのか・・」と認めざるを得ない。いかんせん、スマホが便利すぎるのだ。

 

しかし、最近は敢えて文庫本を持ち歩くようにしている。

本ブログでおなじみ『ノルウェイの森』に出てくる永沢さんのセリフが脳裏にある。

「他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない」

ノルウェイの森 (講談社文庫)

 

紙の本を読む。可能な限りにおいて

最近、電車で代わりに文庫本を読む。

それだけのことで、世界の見え方は少し変わる。

 

もちろん、スマホを否定する気はない。先ほど書いた通り、大変便利なツールであり、手放せないツールであることは間違いない。ただ、気づけば“暇さえあれば画面を触る”という反射的な行動になっていた。

そんな、他人と同じ俗物的な行動をとっている自分が嫌になったのである。

 

紙の本を読むという行為には、少なくとも「自分で選んだ」感、つまりそこに能動的な何かが宿っていると思う。

最近は、カーヴァーやフィッツジェラルドを気取って読んでいるのだが、そこには、スマホからは出せない世界観・オーラが出ているんじゃないか(カバーかけてるけど)。

 

また、これは勝手に感じているだけかもしれないが、歩きスマホ咎められるのに、歩き読書は許容されていると雰囲気もある。

朝の駅のホームや、会社までのわずかな道のり。文庫本を片手に歩いていても、誰も眉をひそめたりはしない。むしろ、少しだけ目を引く存在になっている気がする。

 

それはなぜか考えてみる。

スマホの画面には「軽さ」や「中毒性」が、文庫本には「重み」や「知性」があるからではないか。

私自身、歩きスマホをしながら向かってくる奴に道は譲らないが、歩き読書をしてくる人には不思議と道を譲ってしまのだ。

 

精神的優越感に浸る

紙の本を読んでいると、どこか精神的な優越感を覚える。

どうしようもない性格だと思いつつ、現代社会では本を読まない人が多数派を占めている中、知的な営みをしている自分に酔うことも許してほしい。

 

実際、他の人が何をしているかは関係ない。

ただ、スマホの中の“与えられた世界”から一歩外れて、“あえて本を開く“という選択。

そこに、静かな美学が宿っていると思うのだ。

今日もまた、電車に揺られながらこれ見よがしにページをめくろう。

誰にも言わないが、私は自分が少しだけ誇らしくなるのである。

 

おしまい