
「○○年入社」という呪い
私が前職のJTCにいた頃、社内でやたらと耳にした言葉がある。
「◯◯年入社」「あいつは誰の同期」「△△部長の下だった」
こうした業務内容や成果と関係のない“社歴”で人を測る風土に、私はずっと辟易していた。
同期の誰が先に課長代理になった、誰が役員に可愛がられている、そんな話題が酒の席で当然のように語られ、そこに乗れない人間は「負け組」として軽んじられる。
そんな空気のなかで、私はいつもどこか冷めていた。なぜなら、私は「負け組」だったからである。
負け組の私が言える権利はないかもしれないが、出世なんて、運とタイミングのゲームでしかない。
だがJTCでは、それがまるで人格の優劣を示す証明書のように扱われるのである。
あぁ、脱出できた私は幸せ者だ。
転職がくれる「一生働く」という幻想からの解放
一度会社を辞めて転職をすると、不思議なことに「この会社で定年まで働くんだろうか?」という問いが、脳内からスッと消える。 憑き物が落ちたかのように気が楽になったことを覚えている。
無論、転職先でも真面目に働くのだが、「ここがすべてではない」という良い意味で冷めた感覚が、心の支えになる。
私は今、転職者比率の高い会社に勤めている。いわゆるキャリア採用が大半で、年功序列という概念もなければ、飲み会強制参加といったつまらぬ風習もない。上司より年上の部下といったケースも多く、誰が誰の上で誰が下かという序列に、ほぼ誰も興味を持っていない。
そういった空気の中では、人と比較することも少なくなる。周囲の同僚もそれぞれ別の業界や職種を経験してきた人ばかりで、比較のしようがないという表現が正確かもしれない。自分の人生を自分の裁量で舵取りしてきた人々と働くのは、非常に快適である。
“村社会”から脱したあとの世界
JTCでは、「暗黙の了解」という名の掟が数多く存在する。
「飲み会には必ず顔を出せ」「◯◯部長には立って挨拶しろ」「ゴルフを覚えろ」……どれも明文化されていないが、守らなければ干されたり減点されるリスクがある。
一方で、中途採用者が多数派の企業では、そうした“村のルール”はない。なぜなら、みんなそれぞれ別の村から流れてきた人間だからだ。
挨拶は簡潔でいいし、飲み会は自由参加、ゴルフなど誰も話題にしない。大事なのは、仕事の納期とクオリティ、つまり業務の中身だけである。
純粋なアウトプットが評価基準になるのでシビアな点もあるが、逆に言えば、きちんと仕事をこなしていれば、誰に媚びる必要もないのだ。
自由には責任が伴うが、それでも自由がいい
もちろん、出世競争から自由であるということは、逆に言えば自分で何とかしないといけないということだ。
昇進や昇給を望むなら、自ら上司にアピールし、実績を数字で提示しなければならない。ある意味では、新卒文化の中である程度勝手に引き上げられるレールがない分、厳しい世界でもある。
だが、私はそれでいいと思っている。誰かの顔色を伺いながら自分のキャリアを決められるより、自分の裁量と努力で選択していくほうが、よほど納得がいくし、上手くいかなかった時に諦めもつく。
出世しなくても自分の人生は続く。
収入が極端に下がらない限り、プライべートの充実や副業、そして再転職によるキャリア設計など、選択肢はいくらでもある。
出世=幸せという価値観に縛られずに生きられることこそ、転職者が得られる大きな果実だ。本当に、JTCから逃げ出せてよかったとしみじみ思うのである。
おしまい