一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

スマホ学習者は凡人に見える。だが、iPadは知識人のツールになりうる

努力しているのに「YouTube中毒」と思われる哀しみ

帰宅途中の道すがら、そしてストリートナンパの行き帰り、私はグロービス学び放題やスタディサプリの講義動画を視聴している。駅から自宅までの片道10分足らず、スマホ片手にイヤホンを耳に差し込み、画面に映る講師の言葉に集中していた。

しかし、それを通りすがりの他人が見てどう思うかといえば、おそらく「YouTubeでも観てるんだろう」と思われるのが関の山だ。

 

電車の中で文庫本を読むとき、自分のなかにあるのは「俺はそこらのスマホいじってる連中とは違う」という、相変わらずどうしようもない、ささやかな優越感である。だが帰り道、夜道でスマホを握って講義を観ている自分には、その“違い”が外に出ない。努力していても、見た目はただの凡人なのだ。それが少し、いや、けっこう悲しい。

 

他人は中身ではなく「外観」を見る

人は他人のスマホの中身を覗かない。というより、画面が小さくて細かいところまで覗けない。だから、TikTokを見ていようが、歴史の講義を聴いていようが、スマホを握っているという時点で、すべて同じカテゴリに分類される。つまり、「スマホで暇つぶししてるおっさん」という認識から抜け出せないのだ。

 

だが、これがiPadとなると話は違うと考える。大画面に映し出される講師の顔、スライド資料、そしてそれを真剣に見つめる姿勢。その視覚情報だけで、周囲の人間は「仕事か? 勉強か?」という想像をめぐらせるようになるはずだ。通行人の視線が、冷ややかさから関心へと変わる。

特に夜の住宅街で、黙々とiPadを眺めている姿には、それなりの雰囲気が漂うはずだ。奇異な目で見られることもあるだろうが、それでもスマホで凡人と同化するよりは遥かにマシだ。いや、むしろその変人感がよいではないか。

 

「意識高い系」という仮面の効能

人は「意識高い系」と言われることを恐れがちである。だが、その言葉の裏には少なくとも「努力している」「学ぼうとしている」という事実が含まれている。

他人にどう見られるかを気にするのは、決して悪ではない。他人の目があるからこそ、自分の行動を正すこともあるのだ。

努力は本来、他人に見せるものではない。だが、時に見せることで自分の気分がよくなり、継続する源にもなる。

スマホは凡人の象徴だ。だが、iPadは知識人のツールになりうる。すべては自己満足でしかないかもしれないが、所詮私は小さい人間であり、それでいいのである。

 

おしまい