一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

大学時代の学びの記憶

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最近、仕事をしていてふと大学時代の授業を思い出すことがある。

顧客の事業分析をするときは経営学の基礎が頭に浮かぶし、商品・サービスの売り出し方を考えるときはマーケティングのフレームが役に立つ。契約書をチェックするときは、民法のおぼろげな知識が思い出される。

 

こうやって「あれ、これ大学で習ったやつじゃん」と、何年も経ってから気づくのは皮肉だ。

 

当時の授業は退屈だった

授業を受けていた当時は正直最悪だった。

教授の話は回りくどく、専門用語を並べているだけのように聞こえた。教科書も読みづらく、テスト対策以外では開く気にならなかった。

心を躍らせて大学の門をくぐった私としては、かなりがっかりしたことを今でも覚えている。

 

唯一の救いは、無名講師のロジカルシンキング講義

そんな中で、唯一記憶に残っているのは一般教養の一つだった。

担当は、有名教授でも何十冊も本を出している学者でもない、名前すら覚えていない地味な非常勤講師。だが、その人の授業は妙に面白かった。

 

テーマはロジカルシンキング。20年前の当時はまだそれほど注目されていなかったが、今や大人気テーマの一つだろう。

主張と根拠を整理する方法や、物事を分解して考える手順を、実務の事例を交えてわかりやすく教えてくれた。

 

肩書きや知名度ではなく、内容そのもので勝負している授業。

今振り返ると、大学で受けた講義の中で一番有意義だったのはこの人の授業だったと思う。皮肉なのは、それが必修科目ではなく、あくまで「おまけ」のような一般教養だったことか。

 

途中から独学モードに切り替える

そんな環境だったから、私は途中から授業を受けること自体に興味を失った。

単位を取るための最低限だけ出席し、残りの時間はひたすら自宅にこもって本を読んだ。

 

経営や心理学、社会学や歴史。

図書館や書店で見つけた良書を読み漁る日々のほうが、よほど学びが多かった。

 

思うのは、もしあの無駄な授業とテストがなかったら、もっと有意義な時間を過ごせただろうということだ。大学という枠組みに縛られず、自由に学べていれば、知識も経験も桁違いになっていたはずだ。

 

大学という仕組みへの疑問

大学とは何のために存在するのか。

知識の習得という点ではあまりにも効率が悪すぎる。本当に役立つ知識は、独学でもネットでも手に入る。受験や講義に縛られず学べたら、人生の伸びしろは桁違いだっただろう。

最近では、Fランと呼ばれる大学への助成金を問題視し、「淘汰されるべき」という議論がにわかに巻き起こっている。

実際、上位私大だった私の母校ですら、授業は壊滅的で、市販の本を読めば1年分の内容を1週間で終えられるのだから、こうした議論はどんどんすべきだと思う。

 

もちろん、大学には知識以外の価値もある。

学歴は就職や社会的信用に影響するし、人脈づくりや人間関係の経験は、教室の中だけでは得られないものだ。

この点、就職は全く力を入れなくても割と名の通ったJTCに就職することができたので、意味があったと言えるかもしれない。今はどうかわからないが。

あと、私はほとんど大学時代に友人というものを作らなかったので、人脈づくりという点では全く希望しなかったことは申し添えておく。

 

今も学び続けるしかない

結果論として、大学で学んだ知識が今になって役立っているのは事実だ。

ただし、それは当時の授業そのものから得たものではなく、後から独学や実務を通じて再発見した知識が多い。

 

だからこそ、40歳になった今も知識をアップデートし続けるしかないと思っている。

あの頃の無駄を取り戻すために、いや、それ以上に、これからの自分を伸ばすために。

 

私の大学時代が何だったのかという問いには、たぶん一生答えは出ない。

けれど、一つだけ言えるのは、学ぶ主体は自分自身だということだ。

学生時代と違って、書籍には無尽蔵に資金を突っ込める経済的な余裕も出てきた。

どんどん本を読んで、勉強して、脳ミソをグレードアップしていきたいと思う。

 

おしまい