
速読派なのに小説は遅読してしまう
ビジネス書は速読で読むのが当たり前の習慣になっている。まえがきと目次で全体像をつかみ、そして太字部分と気になる部分だけを高速で読み進める。非常に効率的だし、これで書いていることの大半は理解できている(と思っている)。
一方、小説になると、どうしても読むスピードが落ちる。文字を全て追うので、1ページにやたら時間をかけてしまう。気づけば、速読推奨派のはずの自分が、小説では遅読派になっている。「こんなにゆっくりでいいのか?」と自分に突っ込みを入れたくなる。
小説は情報ではなく「体験」だ
でも、考えてみれば、これは当たり前のことだ。ビジネス書・自己啓発書は知りたい情報を得るためのもの。効率よく要点を抜き出せば用が足りる。
一方で小説は違う。そこにあるのは「体験」だ。たとえば、登場人物の感情、風景の描写、文体のリズム。ページをめくる速さではなく、立ち止まって味わう時間に価値がある。読み飛ばすと、その味わいが失われるのだ。
逆に、「早く読むのが惜しい」と思える小説ほど、本来の読書の楽しみが詰まっているに違いない。
図書館本と所有本の違い
また一つこれも悩みなのが、ここのところ活用している"図書館で借りた本"には、返却期限があることだ。
二週間で返さなければならないと思うと、どうしても焦りが生まれる。
結果、返却期限が近づくにつれ、速読に近いペースで読まざるを得なくなることがある。
その点、自分で買った本には期限がない。通勤電車で1ページだけじっくりと読んで閉じてもいい。夜、眠気に抗いながら数行を反芻してもいい。所有している安心感が、遅読の楽しみを支えてくれる。
思うに、文庫本なんて、新品だとしてもたかだか1000円も出せば買えるのだから、無理して図書館で借りる必要はないのだ。
カーヴァーとチーヴァーに浸る
最近はレイモンド・カーヴァーを読み終えて、ジョン・チーヴァーの短篇を持ち歩いている。
知らない人も多いと思うが、カーヴァーの『羽根』のような短い作品には、読むたびにざらざらとした余韻が残る。あれは遅読だからこそ沁みると言える。
チーヴァーの世界もまたそうだ。郊外の何気ない光景に潜む違和感や、平凡な家庭に差し込む影。その細部を噛みしめる時間が、小説を読む喜びそのものになっている。
速読と遅読は両立する
結局のところ、速読と遅読は対立するものではない。
ビジネス書では速読で効率よく知識を取り入れる。小説では遅読で世界に浸る。
この切り替えができるからこそ、読書の幅が広がる。
小説を遅く読むことに後ろめたさを感じる必要はない。むしろそれが正しい読書だ。
朝の電車内の遅読のほんの短い時間こそが生活を豊かにしているとすら思う。
通勤電車で1ページを読む。たったそれだけの行為が、一日の中で一番贅沢な時間になる。
おしまい