一匹狼の回顧録

30代の孤独な勤め人がストレスフリーな人生を考える

臥薪嘗胆──屈辱を忘れない

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前回の記事では「刻石流水」という四字熟語について書いた。

受けた恩は石に刻み、かけた情けは水に流すという、人間関係におけるある種の理想の姿勢である。

しかし、正直に言えば、私の人生を大きく突き動かしてきたのは「臥薪嘗胆」という正反対の言葉であったかもしれない。

 

臥薪嘗胆の意味

「臥薪嘗胆」という言葉はおそらく中学校の漢文の授業で習ってた人も多いと思うが、大きな目標や復讐のために、苦しいことを我慢しながら努力を続ける、という意味である。

「臥薪」は“薪(たきぎ)の上に寝る”ことで、あえて不快な場所で寝て苦しさを体に刻みつけること。

「嘗胆」は“苦い胆(肝臓のようなもの)をなめる”ことで、毎日わざと苦味を味わい、悔しさを忘れないようにすること。

 

由来となるストーリーは、中国の春秋時代、越という国の王・勾践(こうせん)が、呉という国との戦いに負けて捕虜になる。

その屈辱を忘れないために、家に戻ってからは固い薪の上に寝て不快さに耐える、苦い胆を毎日なめて悔しさを思い出す、という生活を続けた。

その結果、国を立て直し、ついに呉を倒して復讐を果たした。ここから「臥薪嘗胆」という言葉が生まれたのである。

屈辱を記憶することをエネルギーに変える生き方。それは「刻石流水」のような優雅な徳目とは対照的で、むしろ苛烈で執念深い。だが私は、この言葉のほうに自分の実感が近い。

 

私を突き動かした屈辱

前職で、私はパワハラに苦しめられた経験がある。具体的な描写は割愛するが、人格を否定するような言葉を投げつけられ、理不尽な扱いを受けた。そのとき心に刻んだのは「この人間にだけは絶対に負けない」という執念であった。

その後の私は、ことあるごとにその顔を思い浮かべては、「見返してやる」という気持ちで仕事で成果を出し続けた。悔しさや怒りを燃料にするのは、決して健全とは言えないのかもしれない。しかし、臥薪嘗胆という姿勢は、弱気になるたびに私を支え、前へ進ませてくれたとも言える。

 

臥薪嘗胆と刻石流水の二面性

では「刻石流水」と「臥薪嘗胆」は相容れないものなのか。私はそうは思わない。むしろ両者は人生において二つのエンジンのように共存している。

 

人との縁を大切にし、恩を忘れず刻み込む姿勢は、人間関係を豊かにし、信頼を育む。これが「刻石流水」。

一方で、理不尽な扱いや過去の屈辱を忘れずに闘志を燃やすことも、成果を出すためには有効な燃料になる。これが「臥薪嘗胆」である。

 

どちらか一方に偏れば、バランスを欠く。恩だけを刻む人間はお人好しとして他人に利用されかねず、屈辱だけを刻む人間は復讐に囚われる。だが両方を抱え込むことで、人はバランスのよいメンタリティを保てるのではないか。

 

まとめ

私は元々は間違いなく「臥薪嘗胆」型の人間である。前職のパワハラを忘れることは一生ないだろう。だが同時に、これまで出会った恩人たちの存在を「刻石流水」として心に刻んでいる。

 

恩と屈辱。正反対に見える二つの記憶が、私の人生を突き動かす両輪となっている。

これからも私は屈辱を忘れず、同時に受けた恩を大切に刻んで生きていきたいと考えている。

 

おしまい