サラリーマン仕事の「大義」と「しんどさ」
「社会のため」「会社のため」
どちらも立派な言葉である。しかし、あなたはこの大義名分だけで毎日の仕事に身を投じ続けられるだろうか。
“社会のために”で残業できるか?
“会社のために”で徹夜できるか?
正直に言えば、私には無理である。
就職活動の面接では「社会貢献をしたい」と語る学生が多い。しかし実際に社会に出てから待っているのは、コピー用紙の補充や、無意味に思える資料づくり、あるいは気乗りしない会議への出席である。
そこに「社会のため」という意識を無理やり重ねても、心はついてこない。むしろ虚しさばかりが募るのではないか。
実際、日々私たちを本当に突き動かしているのは、もっと小さくて個人的な感情である。「上司に怒られるのが嫌だ」「あいつには絶対負けたくない」といった思いの方が、はるかにリアルで、毎朝の電車に乗ったり、土日に勉強したりする原動力になる。
仕事はあくまで“プレイ”
少し古い記事だが、R25のインタビューで田端信太郎が語った言葉が印象的だ。
「揉めてるときこそが仕事、揉めてからが仕事。サラリーマン同士が会社の看板背負ってやってる揉めごとなんて、しょせんプレイ。謝罪プレイだ。」
この視点は大事だ。サラリーマンの争いや板ばさみは、会社を背負った役割上の衝突にすぎない。上司が部下を叱りつけるのも、取引先と条件で揉めるのも、結局は「役を演じている」のであって、個人の生死をかけた戦争ではないのである。
にもかかわらず、過剰に自己否定を感じたり、心をすり減らしたりする人が多い。だが、そんなことに本気で消耗する必要はない。むしろ冷静に「これはプレイなんだ」と捉え、与えられた役割を演じきることこそ、プロの仕事である。
会議室で怒号が飛ぶことがある。電話口で罵声を浴びせられることもある。だが、その多くは会社の看板を背負った“お芝居”にすぎない。
私的な感情こそが本当の燃料
とはいえ、人間は合理性だけでは動けない。どれほど「プレイ」と割り切っても、心の奥では「なぜ自分は頑張るのか」という問いが残る。その答えはやはり、個人的な感情である。
「怒られるのが嫌」という防衛本能は、仕事を早く、正確に進めようとする力になる。たとえば会議の前に資料をつくるとき、ただ体裁を整えるだけでは上司に突っ込まれる。怒られないために、グラフの色を工夫したり、数字の根拠を一段掘り下げたりする。発言を求められた時のために、余計に考える。すると、アイデアも出てくる。結果的に、仕事は正確になるどころか、よりクリエイティブになる。
また「絶対あいつには負けたくない」というライバル意識も強力だ。隣の席の同期や歳の近い先輩・後輩が先に成果を出せば、自然と「自分も負けていられない」と思う。昇進リストに名前が並べば、「どうしても先に上がりたい」と血が騒ぐ。その気持ちが、深夜までの踏ん張りを可能にし、翌朝の眠い体を会社へと運ぶ。
大義よりも、こうした個人的な感情の方が、よほど持続可能なモチベーションになるのだ。社会のために徹夜する人間は少ないが、ライバルに勝ちたい一心で徹夜する人間ならたくさんいるのではないだろう。
公的感情と私的感情のバランス
もちろん、公的な感情を完全に否定するつもりはない。社会的意義や会社の使命感がなければ、仕事の方向性は見失う。社会的に意味を持たない事業に、どこまでの価値があるかは疑問である。
ただし、それだけでは人は動けない。公的感情はあくまで羅針盤であって、推進力ではない。人を前へ押し出すのは、やはり「怒り」「悔しさ」「勝ちたい」という私的感情である。
方向性を決めるのが公的感情、推進力を与えるのが私的感情。この両輪を組み合わせることが、サラリーマンとしての健全な働き方なのではないか。
実際、社会的意義だけで動く人間は、理念には強いが持続力に欠けやすい。逆に、私的感情だけで動く人間は、力強いが視野が狭くなりがちだ。両者をいかに組み合わせるかで、キャリアの伸び方は大きく変わるというのが私の結論だ。
もっと素直に“私情”を燃料にして働け
「社会のため」という大義は、就職・転職時やキャリアの棚卸しをするときに考えればいい。中長期のビジョンには必要である。しかし、日々を支えるのは「小さな私的感情」で十分なのだ。
「怒られたくない」「あいつに負けたくない」。そんな私情こそが、毎日の行動を生み出す。大義は後からついてくるものである。むしろ、その小さな感情が積み重なって、結果的に会社や社会に貢献しているのだ。
だから、私的な感情を燃料にすることを恥じる必要はない。むしろ堂々と使えばいい。怒りも、悔しさも、ライバル意識も、サラリーマンの大切なエンジンである。
「会社のため?社会のため? いや、“あいつに負けたくない”で十分だ」。
このくらい割り切って働く方が、ずっと健全で、ずっと強くしなやかになれる。
おしまい
