
相変わらず通勤電車では本を読むようにしている。通勤路は毎日同じであっても、その時間の過ごし方は日々のリズムを決定づける重要なものだと考えている。
だからこそ読書を取り入れるのだが、実際のところ朝の電車で小説を開く余裕がほとんどないことがわかった。
サラリーマンの朝は準備に追われる。新聞を読み、当日の会議で話すシナリオを頭の中でシミュレーションする。小説を味わう落ち着きは、そこには存在しない。
私の一日は、目覚めとともに情報の洪水に浸かるところから始まる。
シャワーを浴びながら聴く日経を流す、身支度の合間には佐々木俊尚氏のVoicyを流す。自宅最寄駅に向かう道のりで、スマホで全国紙の主要な見出しを確認(歩きスマホは嫌いなのだが、この時間だけは仕方ないと割り切る)。駅のホームに着けばすぐにiPadを取り出し、電車の中では日経電子版の記事を読み込み(スマホだとバカっぽく見えるので、iPadでこれ見よがしに読むのがポイント)。早めに新聞を読み終わった時は、東洋経済やダイヤモンドといった経済誌を流し読みする。会社の最寄駅に着いたら、歩きながらその日予定している会議の段取りを頭の中に描く。誰に先に話を振るべきか、どの論点で押し切るか、想定問答のシミュレーションをする。
このような朝に、小説など開こうものなら数行で意識は途切れ、文字はただの黒い模様と化してしまう。
だから私は決めた。娯楽としての読書は帰り道に読もう、と。
仕事を終え、最寄り駅のホームに立つとき、文庫本を取り出す。電車を待つ数分間から読書の時間は始まる。そして車内で20分ほど活字に没頭する。そのわずかな時間こそが、慌ただしい一日の中で一番の安らぎの時間とも言える。帰り道にスマホを見ないことを自分に課しているのも、その集中を守るためである。
数少ない本ブログの女性読者の方からもコメントを頂戴したが、興味深いのは、この読書の時間に同じように本を読んでいる人々の存在が目につくことである。互いに声を交わすわけではないが、その姿を認めるだけで勝手に同志意識が芽生える。
一方で、同じ車内には無表情でゲームやショート動画で消費する人々も少なくない。その姿にはどこか気の毒さを覚える。もちろん本人にとっては楽しみなのかもしれない。だが、その無機質な画面と目の死んだ光景を見ると、「せめて一日の終わりくらいはもっと豊かな時間を過ごしたらいいのに」と思わずにはいられない。スマホが悪だと言いたいわけではない。しかし、ページをめくる指の感覚や、物語に没頭する静かな緊張感は、画面越しには得られない質の高さを持っている。
朝は情報を浴び、頭をフル稼働させる時間。帰りは本を開き、心を休ませる時間。サラリーマンにとって、この二面性をどうデザインするかは意外に重要な問題である。効率と緊張ばかりでは持続しない。かといって、だらけた消費に流されていては心は摩耗していく。その間をつなぐ仕組みとして、読書を生活に組み込むことは有効である。
通勤電車の読書は単なる趣味や気晴らしではない。それは、私にとって一日のリズムを整え、情報に流されるだけの生活から自分を取り戻す行為なのである。あくせくした朝と、静かな夜。両方を経て、ようやく私は一日の終わりを迎えることができるのである。
おしまい