
かつて、議事録は修行だった
新人時代、私はずっと議事録を取らさせられていた。今でも思いだすとじっとりとした汗が出てくる、それはまさに地獄であった。
会議の音声を録音したボイスレコーダーを手に、一時停止と巻き戻しを繰り返しながら、文字起こし作業に明け暮れていた。早送りしすぎて聞き逃し、巻き戻しすぎてまた最初から──。そんなことを何十回と繰り返し、ようやく1時間分の会議音声がテキストになる。
だが、その時点では単なる“素起こし”にすぎない。その後も、話者の言い回しを整え、構成を考え、重要なポイントを見出し、敬語や文体を整えていく。すべて手作業で、途方もない労力のかかる仕事だった。
今思えば、あれは議事録作成というよりも、我慢と根性を測るための業務だったのかもしれない。
だが、いまは違う。私はもう、あの地獄には戻れない。
iPhoneとアプリとAIと
いま私が使っているのは、iPhone。そしてそこに入れているのは、文字起こしアプリAi noteだ。
手順は簡単である。会議中、iPhoneで録音し、その音声をAi noteに読み込ませる。数分もすれば、ほぼ完璧に近い文字起こしが完成する。そして、それをChatGPTに渡せば、議事録のドラフトが、自然な敬語で、論点整理された形で出力される。
この一連の流れにかかる時間は、せいぜい10分。
新人時代、私はこれに4〜5時間かけていた。今では、録音を止める頃にはもう、アウトラインが頭に浮かんでいる。そして、AIに整理させたテキストをもとに、最小限の修正だけを加えて、提出できるレベルにまで持っていく。
しかも、だ。
この方法に切り替えてからというもの、私は早く帰れるようになった。にもかかわらず、上司や関係部署からのフィードバックは「最近の議事録、めちゃくちゃ読みやすいね」である。
作業時間は減った。だが、アウトプットの質はむしろ上がったのだ。
この体験こそが、生成AIの真価であり、現代のホワイトカラー労働における革命と言っていいだろう。
「生成AIを使いこなせない人」はもう時代遅れ
思えば、業務における生産性は、もはや“時間”では測れない。
どれだけ長く会社にいたか、どれだけ努力したか、そんな尺度で評価される時代は終わった。いま問われているのは、どれだけ「自分以外に任せる技術」を持っているかである。
生成AIの登場によって、ホワイトカラーの仕事の大半は、構造化・要約・整形といった「再現可能な知的作業」が自動化されつつある。
だが、ここで多くの人が勘違いするのは、「AIが仕事を奪う」という恐怖にばかり注目することだ。
違う。
AIが奪っていくのは、“人間がやる必要のない作業”である。
そして、空いた時間で自分が何をするか。それが、今後のキャリアを左右する。
議事録を例にとれば、かつては「まとめ方を学ぶ訓練」だったのかもしれない。だが、AIがそれを代行できる今、人間がやるべきは“何をまとめるか”を見極め、“何を削ぎ落とすか”を判断する力を鍛えることに変わっている。
もはや、生成AIを使わずに旧態依然のやり方に固執している社員は、組織の足を引っ張っているとすら言える。
会議が終わったあとに、「今から文字起こしします」と言ってPCに向かう人と、「じゃあ録音をAIにかけておきます」と言って帰路につく人。その差は、時間の差ではない。情報処理能力と、判断能力と、道具を使いこなす力の差である。
テクノロジーは“余裕”をくれる
私が生成AIに感動した最大の理由は、「効率化できたこと」ではない。
“余裕”が生まれたことである。
余裕があると、物事の本質が見えてくる。
余裕があると、他人に優しくできる。
余裕があると、創造的な発想が湧いてくる。
その“余裕”を、努力や精神論ではなく、テクノロジーの力で手に入れた。
これはもはや、ちょっとした業務改善の話ではない。大げさにいえば、生き方そのものが変わる発明である。
私は毎日、会議が終わるたびに、録音をアプリに放り込み、ChatGPTに整理させ、最短時間で最適なアウトプットを作っている。
空いた時間で、次の企画を考える。運動する。本を読む。ブログを書く。
夜の街で女の子と飲みに行く日もある。それでも仕事はちゃんと終わっている。
テクノロジーを使って“余裕”を手に入れ、それを自分の時間に還元する。
そんな働き方ができる恵まれた時代に生きていることに、ただただ感謝である。
おしまい