ナンパの話ではなく、たまにはビジネス系の話を。
記憶は、若かりし頃に遡る。
最初の頃の記事で書いたとおり、新人時代、激しいうつ状態に悩まされていた。
alonewolf-memorandum.hatenablog.com
そんな状態を克服するために、最初の数年間は文字通り馬車馬のように会社のために働いたのだった。
入社1年目、月収は約20万だった。
年収も300万に満たないレベルだったかと思う。
税引後の手取りは15〜6万である。
ほとんど遊ず余裕はなかったからいいのだが、一生懸命やっている自分の仕事がこの程度の評価しか受けていないような気がしてずっと悲しい気持ちで過ごしたものだ。
そうやって死ぬか生きるかのレベルで働いている僕が、ずっと敵意を向けている相手がいた。
そう、「窓際のオッサン」たちだ。
ある程度の規模の会社となれば、どこにでもいるのではないだろうか。
僕が朝7時に出社し、フロアの掃除し、日中鳴り止まない他の社員の内線を取次ぎ(先輩社員は自分の内線に出ない)、会議室の設営をし、他グループからの無茶振りを捌きながら、やっとのことで作り上げた書類に1分くらい目を通し、彼らはハンコを押すだけが仕事だった。
※ほとんど内容は読んでない。所謂め〇ら決裁
彼らは9時少し前に会社に来て、18時前には帰ってしまう。
それでいて、年収は1千数百万もらっていると聞いた。
いったい時給に換算したらどれだけもらっているのだろうか。
僕は頭に来ていた。
仕事自体が産み出している価値・仕事の難易度、どれを取っても僕の仕事の方が数倍高いだろう。
それはどう考えても間違いなかった。
それなのに、どうしてあのオッサンはあんなに給与をもらっているのか。
新人時代、似たような思いをした経験は誰しもあるのではないだろうか。
答えは最近読んだこの本に書いてあった。
小暮太一先生の「超入門資本論」という本である。
新人時代に読んでいたら少しは彼らに優しく接することができただろう。
この本は、マルクスの資本論をベースに資本主義経済のルールについて分かりやすく解説している良書だと思う。
この本によると、給与は以下のように決まると書いてあった。
給与は、労働者が出した成果で決まっているのではなく、 労働力の価値、つまり「その労働者が明日も仕事をするために必要なコスト」で決まっています。
(第2章 年収が1000万でも生活がカツカツになる本当の理由<価値と使用価値②>)
そして、その必要コストは「社会的平均」によって算出されるということだ。
この話を聞いて、僕は窓際のオッサンたちの給与が高いことが一発で納得できた。
まず、ご飯を食べないと明日仕事にいくどころか生きていくことができない。
よって食費が必要である。
住む場所を確保し、寝ることができないと体力が回復できない。
よって住宅費が必要である。
服を着ないといけない。
よって衣服代が必要である。
たまには、ストレスを発散しないと病気になってしまう。
よって、娯楽費が必要である。
これらの合計金額がわれわれ「労働者が明日も仕事をするために必要なコスト」として給与化されているのだ。
ここでポイントとなるのは必要コストが「社会的平均」によって算出されているということだろう。
個々の能力や環境に応じた必要コストの算出は困難であるから、あくまで世間一般的にこれくらい必要だろうという想定のもとで窓際のオッサンたちの給与も決められていたのだ。
実際に、あのおじさんには住宅ローンと車(ベンツ)のローンがあって、奥さんと子供が3人いて、大変そうだったなあ、なんて思い返すと、不思議に彼らを許せる気がしてきたのだ。
そして、僕が新人の頃に、「頑張っているのに評価されない!」と嘆くのはお門違いだったということだ。
この必要コスト形式は多くの日本企業で採用されているから、もし新人の頃から、成果に応じた給与が欲しかったら、そのような評価をしてくれる企業に行けばよかったのだが、そんな勇気も自信もなく、結局同じ会社に落ち着いてしまっている。
歳を重ね、順当に昇給・昇格はしたのだが、この必要コスト形式だとなかなか生活は楽にならないのである。
このあたりはまた別の記事で書こうと思う。
マルクスの資本論についてこれ以上詳しく学ぶつもりは今のところないけれど、自分的にはパラダイムシフトが起きた本だったので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
20代のうちに読めたらもっと良かったんだけどなあ。
良書でした。今日はこの辺で。